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子どもの“美点の狩人”になる

 

まず、母親は子供の“安心感の基地”になってください。

 小さい子供はお母さんの膝を基地にしています。三メートルしかいけない時は、三メートル行ってお母さんの膝にパッと戻ってくる。その距離をだんだん伸ばしていって、今度は五メートル、それが二十メートル、三十メートルと離れていく。子供にとって、いつでもお母さんのもとに帰れるという安心感があるから、新しいことに挑戦し、自由に羽ばたけるのです。

 ところが最近のお母さんは母性欠乏の方が増えていて、安心感よりも恐怖感を与えている。子供が膝にまとわりつこうものなら、「なに鼻垂らしているの、スカートが汚れるでしょう」と。子供はお母さんのそばにいたいのに、それをうるさいと言われたら、どんな子に育ちますか。

 子供が成長する過程で、応答的環境を作って下さい。つまり、子供の質問を大事にしてやるんです。たとえば子供から「雪はなぜ白いの?」と聞かれて、うまく答えられなくても、「お母さんは理科が苦手だから、今晩お父さんが帰ってきたら教えてもらおうね」と、子供の質問を大切にする。それを「白いものは白いの!」とぴしゃっと言ってしまっては、子供の好奇心は育ちません。身の回りのものにおののき興味をもつ好奇心から人間の創造性は育つのです。

 そして母親のできる最大の教育的指導は子供をほめることです。母親は“美点の狩人”でなければなりません。子供の美点を見つけて、ほめることが子供を無限に伸ばすのです。私の母はほめ上手で、子供の頃の私は、大好きな母にほめられると大統領にでもなった気分でした。

 私は小学校の教師だった時に、通信簿の他にチャンピオン賞というのを作っていました。たとえ勉強のできない子でも、誰もが一目置く長所をもっているものです。マラソンの速い子はマラソンのチャンピオン、掃除を一生懸命にする子には掃除のチャンピオン、人一倍思いやりのある子には思いやりのチャンピオンというようにチャンピオン賞を作って、学期末に表彰しました。子供たちは目を輝かせて喜んでいましたね。

 私たちが生きる目的は、能力、人格、生き方すべての面において成長し続けていくことです。親自身が子供以上に成長していかなければ、子供は成長していきません。親がわが身を省みずに子供にばかり自分のエゴを押しつけていて、子供が成長するでしょうか。親自身が死の直前まで成長し続け、その成長した分、子供も成長するというくらいの決意が必要だと思います。

 さらに私たち日本人には、日本という国に誇りを持ち、世界に尊敬される国、感謝される国になる、環境問題でも日本はその技術を生かして救世主となって世界益、地球益に貢献するという気概をもってほしいと思います。お父さん、お母さんもそういう高邁(こうまい)な理想をもって、自分の生き様を通して子供たちに真・善・美・愛・聖・先祖を敬う心を伝えながら、子供たちの心にを育んでいってほしいです。

      (月刊『白鳩』2007年5月インタビュー記事より一部掲載)

 

思春期・青年期

                      (略)

 思春期になると、子どもの心は急に親に厳しく反発します。

 親の方からみて、一時わが子は地下に潜ってしまいます。

 見えなくなってしまうのです。

 これは、青年として独立していくのに不可欠なものでもあるのです。

対象離別心理なのです。

タテの人間関係を嫌悪するのです。  

「自分のテンポ、自分の様式で生きていきたい」

と思う衝動は、あまりに強いのです。

そして、けっして親の目の届かないところで、自己の一生にかかわる経験や選択をしていることが多いのです。

これは、人間としてどうしてもくぐり抜けていかねばならなぬ関所でもあるようです。

二十歳を過ぎた青年が、精神生活で母親にまだ依存しきっているとします。

これでは、発育万全ということはできません。

「ぬくもりと厳格」

を考えてしまいます。

 そして、彼の生活曲線が頂点へ昇りつめかかります。

 その時、彼はまた貴方の所へ帰ってくるのです。

 そして、貴方の生活曲線が、少し下降線を描き始めたとします

 その時、わが子は貴方に対して、いわば保護者のような態度をとりはじめることがあるのです。

 これは、自然の成り行きなのです。

 さあ、ここからが、貴方にとっての正念場なのです。

 貴方に本物のゆとりがあるか、

 ユーモアはあるか、

 自信はあるか。

ということになってしまうのです。

 もちろん、相性もあるでしょう。

 しかし、よりポイントは、あなたが人生という生活舞台で、どれだけ一個の人間として鍛えられているのか、ということになってくるのでしょう。

 この頃のことです。

 父親というものは、貴方の子にとって、近い仲間になってきます。

 そして、抵抗の対象にもなります。

 これも、人間形成上必要なことなのです。

 乳児期からの人間的めぐりあいの中で、やはり大学期は一つの親子関係の完成期といっていいのでしょう。

「行ってまいります」

そういって家を出る、わが子の背中をよくみてほしいのです。

 背中が光っているか…?

死んでいるか…?

泣いているか…?

眠っているか…?

沈んでいるか…?

張りがあるか…?

喜んでいるか…?                  (略)

 

         (『ほっとするね この本を手にすると…』より抜粋引用)

生涯青春

                       (略)

 私も今、人生の半ばにさしかかっています。

 そして、今ダンテの「神曲」の冒頭を思い起こしています。

「人生の旅路半ばに私は暗い森の中にさまよいこみ、まっすぐな道を見失った。あの野蛮な、過酷な、密林

のことを語るのは何とむつかしいことだろう。そのことを考えるだけでも私の恐れはよみがえる。死のほう

がましと思えるほどひどいものだった」

あの天才ダンテにして、中年とは更に悩み多い時期ということなのです。

 もちろん、青年期の迷いの多さも一応はおさまっています。

 感情の波の起伏も、まあまあおさまってきています。

 「それなのになぜ……?」

ということになりますが、実にそういうものなのです。

 ですから、人によっては、この時期を

 「第二思春期」

と呼んだりします。

 「思秋期」

という表現をする人もいるくらいです。

 そして、

「向老期」

などと口にする人もいます。

 「中年期の危機」

とのたまう思想家もいるのです。

 一番成熟してくる時期において……。

 現実適応へ油がのってくるこの時期において……。

 老化を意識するのでしょうか。

 成人病のきざしがあるのでしょうか。

家庭の問題でしょうか。

 職業的問題なのでしょうか。

 子どもたちが一人立ちしていきます。

二律背反の中で、親という名の愛しき者の脳裏に去来してしまうのは、

「この先どうやって……?」

なのでしょうか。

 ここでの自己疎外感を感じた時がポイントなのでしょう。

 孤立感を感じた時が大事なのでしょう。

 その時に、ある意味で徹底した孤独意識をもってほしいのです。

 孤立感にとどまっていてはいけないのです。

 自らの意志で、

 「一人立つ価値」 

を感じることなのです。

 進んで一人で立っている、という思いを持てるかどうかなのです。

 ここで、一人でいることの強さを思えるかどうかなのです。

 一人でいることの弱さをも自覚できるかどうかなのです。

 一人でいることの限界が一応は見えているかどうかなのです。

 一人でいる時の、無限の広がりをも実感できるかどうかなのです。

 この二律背反、この弁証法の上に立って、アウフヘーベンしつづけていける自己を創り上げることが大切なのです。

 それが、一生を貫く生存目的を理解しつづけていく鍵にこそなるから、と思えてならないのです。

 そこに、

 「本当に自分がやりたいもの」

が見えてくるのです。

 それが、結果として、今までやってきたことと同一であることだっていいのです。

 一度脱皮した感性と眼で見直してみることに、実は意義と価値はあるのですから……。

「自分にとって本質的にいいこと」

が意識できるようになるのです……。

そして、人間というものの不思議を思ってしまいます。

 生理的に衰えや下降線を感じたりします。

 その時の、心理的・内面的作動はいかなるものでしょうか。

 心的上昇カーブのエネルギー源の、膨らみを感じることが多いのです。

 人間というものが、環境だけに左右されて生きているのではないことを思い知らされてしまいます。

 そうです。

 自己と向かい合って生きている面がある、ということなのです。

 ですから、オートメーションばかり勧める気になりません。

 能率化ばかり語りたくないのです。

 むしろ、ここから先は、心をこめた手づくりを推奨したいのです。

 「自分の手でつくっている」

や、

 「心の営みが確実にこの織物を織っている」

という実感こそが、豊饒たる充実感をもたらすと考えてしまうのです。

 その意味でも、ぜひ中年まで生きてきた甲斐というものを噛みしめてほしいのです。

 一つは、若い頃からの履歴書を大切にすることです。

 一つは、心の中では、履歴書と訣別してほしいのです。  

そして、新しい冒険の旅立ちをしてほしいのです。

 自分なりのユートピアをおもいめぐらせてほしいのです。

 そして、否定しつづけ、馬鹿にしつづけてきた子どもっぽさを、もう一度見直してほしいのです。

 笑った時に、何ともこぼれるような童顔を出してほしいのです。

 そして、何かに打ちこんだ時の、輝くような成熟と見識、貫禄と信頼感。

 この、見事な統一を期待したいのです。

 老には老で、それこそ「老価値」があるということはわかります。

しかし、一考しなければならないことがあります。

それは、「老」でさえ、その原動力は「若さ」であり、「青春」であるという、まぎれもない事実を知悉するということなのです。

(「ほっとするね この本を手にすると…」より抜粋引用)

 

 

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