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濤川栄太の軌跡

 

(誕生と家庭・学校・交友関係)

1943年11月22日東京生まれ。父親(栄50歳)は平凡社、潟Aート、朝日産業、精神衛生普及会など17の会社に経営参加し、美術評論家、国宝審査委員を務め、川端康成、吉川英治、小林古径、藤山愛一郎等の文壇・画壇・実業界に多数の友人を持つ。また母親(きぬ江33歳)は8ヶ国語を話し、横浜市長の秘書を勤めた。河口湖の別荘で母の「富士山のような子に」との祈りの中で胎教時代を過ごす。焼夷弾の音を聞いて泣いている姉とは対照的に、笑っていた乳児期。

1歳の時、岩手県水沢に疎開。就学まで自然の中で過ごす。父親の10万冊近い蔵書に囲まれ、読めないながらも本に親しんで育つ。

戦後、東京へ戻る。東北訛りで苦労する。練馬区豊玉の小学校時代、ガキ大将で20〜30人の友人を家に連れて来る。戦後の食糧難の時代にもかかわらず工面して、空腹の子ども達に食事をふるまう母を見て過ごす。小学校時代、前橋汀子氏と同級。

その後、巨額な保証により、大損失を受ける。ひとことも愚痴を言わない父と母。

青山に移る。青山中学校へ入学。牛乳配達、新聞配達等を経験。生徒会長をしながら番長を張るという個性的な面が色濃くあらわれる。長嶋茂雄氏に憧れ立教高校へ特待生として入学。野球と読書と名作映画漬けの日々を送る。関口宏、川田太三、林隆三氏等と同級。立教大学経済学部経済学科へ進学。部活は新聞部。この青年期に、カトリックをはじめ、仏教、神道、マルクス主義、実存主義など、世界の哲学、宗教を徹底的に学び、積極的に様々なものを体感する。政治,経済、哲学、宗教、文学、歴史、心理学など、一日10冊、10万冊の読書に挑戦し、図書館読破の目標を立て実行。スポーツも音楽もあらゆるジャンルを超えた文化を網羅し吸収する。16種類のアルバイトも経験。また、様々な人と会うことにより「人間を知る」ことに邁進する。大学卒業後、実業人として誇りを持つ父親の強い勧めで、大手自動車メーカーへ入社。トラック販売の営業では、飲めないお酒を飲んで成果を上げるが、どうしても教師になる夢を断ち切れず、立教大学文学部教育学科に再入学。1年で単位取得、通信を含め他5つの大学で資格を取得。

大好きな母親が癌で入院。看病しながらの通学。しかし、母親は教師になる前に他界してしまう。24歳の時であった。そして父親の事業を継がぬ決意に対し、「教育人に金はいらない」と言われ、資産はすべて社会還元。箸一本残さなかった。

教師は、世界中のことを何でも知らなければいけないとの信念から100万冊の本読破を目指して猛勉強を加速する。

 

(小学校の教師に)

 小・中・高校の免許を取得し、教授からは研究者の道を勧められるが、社会の問題は小学校あるいは幼稚園児に凝縮されているとの見解により、小学校の教師になることを選択。

 秋に横浜市立の小学校教諭として着任。「教育者は、世界、宇宙の森羅万象全てに好奇心を持つ」ことをモットーに、子ども達に体当たり。熱血とユニークな教育法(毎日新聞で『チャンピオン賞』が紹介された)で、子ども達の学力・意欲を目覚ましく向上させ実績を積む。また、教師は学校と家庭の狭い世界の往復になってしまうことに懸念を感じ、教育相談、カウンセリングをはじめ疎外された子の味方になって活動。宮澤賢治の『よだかの星』の読み聞かせが効力を発揮したという。命がけで暴力団とかけあい、買春している女子中学生を更生させたり、覚醒剤、シンナー、家庭内暴力、刃物を持った幻覚症状の少年たちを相手に殺されそうになった事も数えきれない。その他、登校拒否、自殺未遂、ノイローゼ、自閉症児等、困難な問題の解決に奔走した例は枚挙にいとまがない。夜回り先生のはしりとして、夜は暴走族・非行少年少女の更生に体当たりで取り組む。

 

37歳、日本で最年少の教務主任に。金属バット両親撲殺事件で夜も眠れず、子どもが子どもを殺す時代を予感しデビュー作『今、親は子に何を語るべきか』−日本人はこの地獄を見てどう生きればいいのか−(1981年)を自費出版。全国的に反響を呼び、各紙に取り上げられ大ベストセラーとなる。親・教師など教育関係者のバイブルとして活用され、ロングセラーとして愛読される。全国から講演・テレビ・ラジオの出演依頼多数。

教育委員会に転勤となり、自殺した子ども達の遺書の分析を研究。「自分を必要とする人間が一人もいないと思うと、人間は生きていけない存在である」ことをつかむ。

 

かつての教え子の父兄だった阿久悠氏に、「いい本を書いたからと安穏としているのではなく、自ら行商しなさい」との指導を、生涯の姿勢として貫く。

『お父さんお母さん聞いて下さい』『子どもは爆発的に伸びる』『教室からの熱風提言』『子育て革命』『子育ての難問26』など次々出版。TBSラジオ「お元気ですか!土居まさるです」身の上相談コーナーの回答者を数年間務める。

 

(独立・日本教育文化研究会設立)

学校で“お葬式ごっこ”をされ、中学二年で首つり自殺した鹿川君の事件に心を痛めて、「自殺する子どもが一人もいない世の中にしたい」との、教育者としての強い責務を感じ、2年間勤務した教育委員会を退職し、独立。日本教育文化研究会(昭和63年)を設立し、講演活動、教育相談活動を本格的に展開。全国の悩める親からの相談が相次ぎ、驚くべき解決力で親・教師から信頼を得る。

 

テレビ、ラジオ、新聞、雑誌の執筆、カウセリング…と、人間機関車の如く、全国行脚。講演は、涙と笑いと感動に思わず引き込まれ、2時間があっという間。胎教教育から小・中・高・大学・青年・壮年・熟年・老年の発達心理学を縦軸に、教育・政治・経済・歴史・文学・文化・福祉・社会情勢・世界情勢・人間はどう生きたらいいのかという哲学を含めた人文・社会科学を横軸に、独自の教育論を展開するに至る。強いインパクトのある講演・生き方・主張に啓発された人々は多い。幅広い視野を持ち、全てに応用できる内容と評価され、企業の重役会、管理職研修会など、多種多様な講演が増えた。

 

『これでいいのか!日本の教育』(平成1年)は竹村健一先生との対談の本。これからは教育が日本の最重要課題だと言わしめた。大好きな石原裕次郎さんの追悼書『石原裕次郎鎮魂歌』は名著との評を頂く。

 

テレビ朝日『神津善行の悠々トーク』『親の目、子の目』『内田忠雄のモーニングショー』『こんにちは2時』、フジテレビ『おはよう!ナイスディ』、日本テレビ『ズームイン朝』、テレビ東京『レディス4』、NHK第1放送『午後のロータリー』、文化放送『竹村健一の世相ホットライン』『高島忠夫のジャンボホリデー』、ニッポン放送『山谷新平のおはようニッポン』、FM放送『朝の提言』、東海ラジオ『モーニングエコー』、その他多くのテレビ・ラジオ番組に出演、産経新聞では神奈川版『教育』の欄を2年間連載後、全国版『濤川栄太の教育相談』として約8年連載。毎日新聞では教育問題コメンテーター・講演講師。その他各紙・各雑誌にコメント掲載。

テレビ神奈川では人気番組「おしゃべりトマト」の中で毎週木曜日15分『濤センの子育て革命』のコーナーの生番組を持ち約3年間務める。その中で特に強調していたのは、古典から学ぶこと。クラッシック音楽は、子どもの情緒を安定させ、教育者(親・教師など)の不足分を補う程の精神的効果がある事、また、古典文学に触れる事は、心を深め、精神性を高めるだけではなく、思考力を深め、他の教科にも波及する事を力説した。そして情緒的に最も重要なことは、子どもが“安心感”を心の基盤に持っている事。それが土台となって、心が豊かになり、学習も身に付き大きく強く羽ばたいて行くことが出来る。それらをあらゆる角度から分かりやすく解説した。

 

『親の5つの責任』−乳児(02歳)期の「基本的信頼感」、幼児前(24歳)期の「自律心」、幼児後(46歳)期の「自発心」、小学校期の「勤勉性」、青年期の「アイデンティティの確立」という、画期的な教育指針を発表する。

その頃より『いま日本人へ』『日本爆発』など、日本の国のあり方に警鐘を鳴らす本なども執筆し、発言するようになるが、“右翼?”と白い目で見られながらも世界の中の日本の位置・役割・文化の重要性を説き、日本人の国家意識向上に努めた。

独立した年の夏、『いま日本人へ』の本の出版記念会が、「新高輪ホテル 飛天」にて行われた。会場担当者に「こんな会を一個人が開催するのは考えられない」と驚かれる程、けた外れの発想とスケールと挑戦心という、将来の活動を伺わせる催しであった。

 

(人材育成塾・新松下(しんしょうか)村塾(そんじゅく)を開塾)

 平成4年4月、人材育成塾「新・松下村塾」を銀座キャピタルホテルにて開塾。幕末のような激動の世を迎えるとの意から、吉田松陰の松下村塾を基として命名。このままでは人類は滅んでしまうという危機感により、21世紀を担う人材の育成に力を注ぐ。

経営者、政治家、弁護士、医師、教育者、音楽家、サラリーマン、主婦、学生など職業・年齢・男女にとらわれず幅広い層が一堂に会し、日本・世界情勢、政治・経済・教育・文化・環境・文学・哲学・歴史・情報などのテーマを一流の講師陣を招き、質疑応答・塾長総括など双方向で問題点を深めながらも、心のぬくもりのある塾運営を行った。時代を担う若きリーダー達に「360度の幅を持ち、ビッグバンともいうべき衝撃を与える人」と言わしめ、熱い視線を浴びていた。

 

 『こうすれば幼児は伸びる』『子育てバイブル』など教育を体系的にまとめた本のほか、『人生の使い道を考えてみないか』など人生の書も執筆。『心の幸福を求める人へ』は小冊子ながら、不思議と心が落ち着く本、誕生日の日はその人の人生の課題が当てはまっている、と反響を呼んでいる。

 

童話『ベビースーパーマン・コロンコ 地球への旅』『キングマンとキリマンジャロの雪』『ケンとおばあちゃん星』の愛の三部作は、人生観を凝縮し、「環境、民族、人類愛、生きる意味、死の問題、ノブリス・オブリジェ」など、今までにないテーマを絵本に盛り込んだ。大人が難しいと思う反面子どもは自然と受け入れ、子どもの感性は本当は深く高いものを求めていることを実証した。むしろ子どもの感性は大人よりも完成されている。表現できないだけですべてを分かっている。その頃に最も高度なものをこそ与えるべきではないか、との見解を持っていた。

 

 『ラストチャンス』(平成6年、渡部昇一先生との対談)が大ベストセラーとなり、『平成超没落へのカウントダウン』と共に、日本国の課題に鋭く迫り、国力が4等国5等国になる危惧をもち警鐘を鳴らす。

ニッポン放送『テレホン人生相談』では、加藤諦三・加藤芳郎・森田浩一郎先生方のもと、約8年回答者として務め、山陰放送『サンサン・モーニング』では、週1回数年間におよび社会・政治・教育問題についてコメンテーターとしてコーナーを担当、好評を博す。

 

(社会活動・国民運動など)

『戦後教科書から消された人々』は、@A巻で40万部近いベストセラーとなり、自虐史観からの脱却・自国への誇りを取り戻す機運が「あたらしい歴史教科書をつくる会」と連動して高まっていく。小学校教師の時より、日本の国を愛せない、誇りを持てない子どもたちが増えていく状況に、国語・社会科の教科書に問題点を感じており、古典はおろか、偉人伝・神話・昔話の伝承が絶たれつつある状況に疑問を感じていた事もあり、つくる会の副会長として、世界のどの国民も持っている健全な国家観・国を愛する心を持った国にしたいとの思いから全国の支部の設立、パイロット版の普及に尽力。

テレビ朝日『朝まで生テレビ!』などの番組のコメンテーターとしても多数出演。また、産経新聞『濤川栄太の教育直語』の連載。平成9年から約2年半「夕刊フジ」の『日出ずる国の男たちへ』のコーナーの連載へと続き、日本の男の心意気を示す。月刊誌『正論』『諸君!』などにも多数掲載。

合わせて「感性・心の教育」と銘打ち、21世紀を見据えた子どもを育てるべく仲間の有識者と共にその啓蒙のシンポジュウムや講演などを全国的に展開するなど精力的に活動する。しかし内部の対立により「あたらしい歴史教科書をつくる会」から身を引く。

 

かつてより思案していたライフワーク「日本と世界の子どもたちを救う会」に着手(平成12年)し、国内にあっては国語力―とりわけ「音読」が、心を深め脳を活性化することを力説。日比谷公会堂を皮切りに全国各地でシンポジュウムや文化活動を展開。同時に各県の行政や為政者に音読の効用を訴え普及に努めた。海外においては、バングラディッシュ・アフガニスタンなど、飢えた子どもたちを救うための活動をNPONGOの方々と連携し、準備していた。

 

全国的に「音読」の概念が広まる中、音読集『いのち輝く』、『日本人が読み伝えてきた音読名文107選』を出版。音読について本格的な内容と評価される。また続いて、哺乳類の基本であるホールディングで子どもたちの能力を伸ばし、更生させてきた経験をまとめた『抱きしめる教育』を出版。各界から反響を呼ぶ。

また、『ラストチャンス』執筆以来、危機を提唱していたハブ空港問題の解決にあたり、東京湾央に新空港を造る案を知り、高橋宏会長のもとに「スーパー新空港実現を考える会」を立ち上げ、千代田公会堂・日比谷公会堂などで大々的に会を開き日本の国力強化のための一策として啓蒙に務めた。

 

(闘病・克服・再活動)

平成15年、長年の無理がたたり倒れる。その後頚椎狭窄症および、糖尿病合併症での腎臓の移植手術という二つの大手術を受けた。約3年の闘病を余儀なくされたが奇跡的に回復、健康体を取り戻す。療養中に執筆した『日本の遺伝子を変える』を回復後の一作目とし、感謝・プラス思考・高い志に啓発された村上和雄先生との共著『人間 この神秘なるもの』(2006年)の2作目を出版。大変な反響を呼んだ。その頃、もうそろそろ「新・松下村塾」の名称を変えて濤川の名を冠してはどうかとの意見に従い、平成19年5月15日付けで「濤川平成塾」と改名する。

 

『日本の決意』『日本国独立宣言』『理想の日本人』『子どもは抱きしめて育てなさい』『心を鍛える偉人伝』『新しい日本の教育を考える』(七田眞氏共著・CD)などの力作もこの頃出版。 

 

『病気は必ず治る!』は、多くの相反する重病をかかえながらも奇跡的に死の淵から帰還するまでの経緯を書き綴ったものである。あらゆる治療士や健康食品との出会い、西洋医療と統合医療、そして精神的・哲学的な深化の経緯。読んだだけで病気が良くなったという人が現れるほどの感化力を備えた本と評価して頂いた。しかしながら、数か所、推敲・訂正漏れがあるなど、未熟さを反省されていたことをここにつけ加えさせて頂く。

 

『日本の決意』は、濤川塾長の日本国の構想を集大成した書。―教育・経済・外交・国家戦略―など日本の未来に指針を示す書として多くの方々より絶賛されている。塾では『理想の日本人』と共に遺言の書として位置付けている。

 

病気回復後は、“人類生き残り”のコンセプトで日本人の意識改革を起こそうと活動を展開した。その為には、日本の経済を立て直さなくてはならないとの意味もあり、江口克彦氏の提唱する「地域主権型道州制」を導入することが望ましいとの観点からシンポジュウムを開催、その理解・啓蒙に全力を尽くす。

 

また、日本の政治の行き詰まりを憂い、「輝け!日本」という政治団体を立ち上げた。力及ばずとは知りながら、「今から、ここから、自分から」を身をもって実践せずにはいられない焦る気持ちを語っていた。

 

また、これからの共生の時代は女性の力が重要との観点から、「濤川栄太先生と語り合う女性サロン(女神の会)」など、目覚めた女性の育成に力を注ぎつつあった。

 さらに、地球環境教科書『今なら間に合う!』の執筆に取りかかり、病後にもかかわらず夜の2時、3時まで原稿の執筆に情熱を注いでいた。

 

(二度目の闘病)

その後、再び病に侵され1年間の闘病生活を送る。その間、数度の手術のため、数か所の病院に入・退院を繰り返しつつも、必ず治して活動するという、どんな状況でも決して諦めない前向きの意思を貫き通した。

「種々の治療に積極的に取り組んだ濤川さんの姿には感銘を受けました」担当医の追悼の言葉である。

後の半年近くはベッドから全く動くことが出来なくなった。そのような厳しい状況の中にあっても、悲観や悲惨さが全くなく、愚痴も怒りも不平不満の微塵も感じさせられなかった。むしろ、面白い事を話しスタッフを笑わせたり、励まして下さった。

「あれだけのご病気にもかかわらず、泣きごとも言わず、最期までほほ笑んで…実にみごとな生きざまを私達に残して下さいました。…」事務所の一スタッフの追悼文。

数年間を振り返ってみると、心ある多くの医師・看護師・ケアーマネージャー・訪問看護師の方々にも恵まれ、また高度な最先端医療の恩恵に浴することもできた闘病生活であった。お世話になった方々にこの場を借りて感謝の意を表したい。

 

平成21年4月4日夕方、救急車で運ばれてからの一週間は、不思議と一切の痛みを訴える事もなく、また、数日間は酸素マスクもはずれ、家族や事務局スタッフと会話を楽しむことも出来た。

亡くなる数日前「みんなに申し訳ない!」と声を振り絞るようにおっしゃった。

 

(4月15日午後12時6分、肺炎にて逝去)

約束は死んでも守るのが信条だった塾長は、皆様と結んだ約束・夢に手を伸ばしながらの逝去であった。

何か突き抜けられたような白く美しい、微笑みを浮かべた様なお顔。お骨は、雪のように真っ白であった。この世に受けた生を、余すところなく完全燃焼されて旅立たれてのお姿なのだろう。思い残すことなく全てをやり切った満足感と、それでも何か少し淋しそうな面持ちもかすかながらにお見受けしたように思う。

 

約25年の間に100冊近くの本・CD・テープを出版し、ジェット機のように素早く数々の運動を展開。抱腹絶倒、涙と笑いの講演。あらゆるジャンルを網羅する歌唱力。不思議な声と笑顔で多くの人を魅了し、感銘を与え、そして愛された塾長は、また多くの人を大切にした人でもありました。

「先生の夢の実現は、私達の夢」―これは、ある会でのアルバムを作成して贈って下さった方の添え書きです。常に私達と夢を共有し、共に生きた塾長。共に笑い、共に憤り、共に語らい、共に涙を流す。そこにこそ塾長本来の魅力があったのかも知れません。

濤川栄太塾長に会えて本当に良かった!出会えたことに心から感謝します。合掌。

濤川平成塾事務局

 

          (塾長の一生をかいつまんで時系列に書かせて頂きましたが、

視点の不統一など、読みにくい点などございますことお詫び申し上げます。)

 


 

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