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濤川栄太塾長の闘病

 

 濤川塾長は、まだ小学校の教師をしていた頃から、右腕の激痛に悩まされ整形外科に時折り通っていましたが、その頃はまだMRICTスキャンなどの精密検査もなく、X線には特に異常は見つからず、原因がわからないまま牽引等の治療を受けるだけでした。

 また、血糖値が少々高かったのですが、自分でカロリー計算をして減量に努め、病院にはほとんどかかっていませんでした。

 

 二〇〇〇年、どうにも具合が悪く、クリニックにかかり血糖値が高いことを告げられましたが、働き過ぎの注意を受けるだけで特別の治療は行いませんでした。一年後他の病院で、血糖値が高いことを厳しく指摘されたのですが、その時は何も合併症は出ていませんでした。

 かかりつけ医を持っていませんでしたから、病状をよく理解して下さる相性の良い病院があればまじめに通おうと探していた矢先、突然歩行が困難となり、頚椎の精密検査をした時には、首の手術を勧められる程、狭窄が進んでいました。二〇〇二年のことです。それからあちこちの良いと言われる整形外科の病院を当たり、手術の方法と術後の状況について調べました。

 

医師によって全く意見も治療法も違い、その上糖尿病があるため、手術を断られる状況もあり、なかなか、納得のいく方向が見つけられず、時間ばかりが経ってしまいました。

 途方に暮れる中、無謀でしたが、検査結果表を持ち漢方調剤薬局に血圧と血糖値を下げる薬の調剤を依頼し、三日ほど飲んだ日の、二〇〇三年三月、ウオーキング中突然倒れ救急車で運ばれました。

その時、心臓の疾患によるものと判断され心臓ではないと主張したのですが、担当医からは心臓の点滴を受けたのです。どうしても納得いかずに医師に交渉して帰宅しました。翌朝、目が見えにくくなっているので検査をしたところ、眼底出血、黄斑変性症になっていました。

良い病院を教えて頂き、数か月にわたって数回レーザー治療にかかり、目の方は徐々に良くなってはいましたが、体調は思わしくなく、ある時、腎臓が急速に悪化し、二〇〇四年、人工透析を開始しました。

一日おきに透析をしていたのでは思うように仕事ができません。そこで腎臓移植をすることになり、病院を訪れたところ、一人で歩けないのでは、それを先に治さなくてはいけないと、整形外科の先生を紹介されました。

そのような中、目の方は、眼底出血ではおさまらず硝子体出血まで起こしてしまい、手術を勧めらましたが、自力で治すことを決意し、手術の延期をお願いし、様子を見て頂いているうちに本当に回復してしまうという奇跡が起きました。

整形外科で頚椎を診て頂くと、一刻も猶予ならない状況であり、緊急手術を勧められました。画期的な手術方法と医師の人格を全面的に信頼し、手術を受ける事になりました。頚椎5か所の手術は大成功。そして半年後の二〇〇五年、六月の腎臓移植手術も大成功しどちらも、最短期で退院できたのです。

 

(この経過は、『病気は必ず治る!』(ヒューマンアソシエイツ刊)に詳しく書かれています。また、病院のかかり方や注意事項などが【賢い患者学】のコラムに掲載されていますので、参考にされて下さい。〉

 

 そして、二〇〇六年、年明けとともに執筆を始め、五月には復帰

後第一作目『日本の遺伝子を変える』の本が出版となりました。

 再び倒れる二〇〇八年、四月までの二年間に、新刊本・改訂版・CDなど数冊を出版し、新たに四つの社会運動を起こすなど、病後とは信じられないほど精力的に活動されました。

 

 

 最後の執筆「地球環境教科書『今なら間に合う!』」は、原稿を病室に持ち込みながらも、完成させることはできませんでした。

 

濤川栄太塾長の臨終

 

去る二〇〇九年四月十五日(水曜日)十二時六分に濤川栄太塾長が逝去されました。

 

濤川栄太塾長は、二〇〇六年に、幾つもの難病を克服し見事に生還を果たし、様々な活動を展開。数冊の本も著すなど、今後の活動を期待されておりましたが、昨年(二〇〇八年春)右足に靴ずれを起こしたところから、ばい菌が入り入退院を繰り返しました。あらゆる治療にも挑戦し、数度に及ぶ手術にも耐え、常に前向きに、未来への希望と夢の実現を描かれ、努力されていました。

 

今年に入り、足の血管を広げる手術を三度受け、それは成功しましたが、耐性菌には、免疫抑制剤を飲んでいることが致命的となり、体力が弱まってしまいました。

 

四月四日、塾長の呼吸が苦しそうに荒くなり、意識がもうろうとしてきたので、訪問看護の方に至急来ていただくと、血圧が異常に低くなっており、救急車をということで緊急に近くの総合病院に運ばれました。]線を撮ると片方の肺が肺炎で真っ白になっているとのことでした。酸素マスクをマックスまで上げて、医師が付き添っての転院となりました。

 

病院へ着くとご家族・親戚が待機されていました。

救急治療室で意識が回復されると、事務局の人達が呼ばれ

「あなた達が諦めては駄目だよ」とおっしゃったので、驚きました。

ナースセンターの隣の集中看護室に移されると、入室された親戚の方々など、一人ひとりに声を掛けられ、励ましたりお礼を言われたり、短い言葉ではありますが、それぞれに適切な言葉がかけられ、その見事さに驚嘆しました。

酸素吸入を15というマックスの状態で二日間、ナースセンター隣の集中看護室で過ごしましたが、六日の朝、状態が良くなり、酸素吸入も必要なくなり、個室に移ることになりました。お顔をのぞくと、顔色もよく、お元気そうでした。

 

その時語られたのが

「大変苦しい修業をしてきたよ。台湾かどこか飛行機で行ったのだけど、暖かいところだった。そこは一秒も休むことが許されない、それはそれは苦しい修業だった。」と、思い出すように話され、「光があったよ」とも言われました。

「飛行機に乗って行かれたのですか」と不思議に思い尋ねると、

はっとしたように

「そうだと、思ったのだけど…」と訝しげにされていました。

続けて

「その修行が終わられたのですね。それで帰ってこられたのですね。」と念を押すと

「そう」と頷かれました。

「お疲れ様でした。よかったですね! それはどんな修業だったのですか」と伺いました。

「主に検査だったよ」と、何かの情景を追想しているかのように虚空をじっと見つめておられました。

 

お体は以前にも増して痩せていましたが、本当に修行が終わったようにすっきりとしたお顔でした。色がとても白く、苦しみの全く感じられない、美しいというほどで、つくづくと眺め入ってしまいました。これから本当に元気になっていかれる!と感じられました。

 

それから二、三日はいろいろとお話ができました。

「今日は遊び心のあるメンバーがそろったね」とか、面白いことを話され、皆で大笑いしました。

 

今回救急車で運ばれてきて以来、幸いなことに、床ずれとか足の痛み等が全くなくなっていました。担当医の先生も不思議そうに

「何故だか分からないのですが、痛みがなくなって本当に良かったですね」とおっしゃいました。

入院前から、いろいろな人から伺っていましたので、痛みがひどい場合、どう対処したらよいのか皆で心配して話し合っていたのです。お食事も少しずつ摂れるようになってきました。

 

けれども、その二日後から再び酸素吸入が必要になり、日増しに濃度が濃くなっていきました。

それでも時折、元気な時は、酸素マスクをずらして、その時々に

「使命を果たすのだよ」

「Oちゃん(ご主人の名)を大事にね。」

「OOちゃん、がんばれよ!」                       

「神の語り部になって下さい」など、それぞれの心に深く残る言葉を一言ずつ残されました。

 

肺炎ですから、痰が詰まり、吸引するのが、「死ぬより辛い」と断ったりしていましたが、その苦しい中、看護師さんが来て下さったり、何かして頂く時は必ず、かすかな声をふりしぼって「ありがとう」とお礼を言われたり、声が出ないときはニコッとされ、看護師さんが「あら、笑ってくださった!」と喜ばれるなど、常に周囲の方々を励ましておられました。

 

どんなに辛く、苦しいと思える時でも、塾長は悲観や悲惨さが全くなく、周囲に当たる事もなければ、不平不満や怒りもありませんでした。以前でも「先生、辛いですか」と尋ねると「辛くなんかないよ。私はいつも幸せだよ」と答えました。

 

四月九日午後八時半頃、いつもお見舞いを断り続けていた親友のS氏を、今から呼んで欲しいとおっしゃるので、今日は遅いので無理である旨を告げてから、S氏に電話をすると、土日は用があり、月曜日に見えるとの事。

今まで皆様が会いたがっているお話をすると「早く元気になって、元気な姿で会いたいんだよ」とつぶやきました。

 

それでも少々ながら、お食事も摂れますし、午前中はお元気でマスクをずらし、お話も出来ました。

四月十一日の午後、突然、

「皆に申し訳ないよ!」と声を絞り出すように発しました。

 

四月十三日朝から、

「今日はSが来る日だね。何時?」「三時です」

しばらくするとまた「何時?」と何回も尋ねるのです。

そのような中でも「足の運動をやって下さい」、と左右50回ずつの屈伸運動を三回もしました。

「Sが帰った後は、足の運動はもうしなくてもいいよ」と言ったのが、本当に最後になりました。

 

お昼過ぎS氏とお会いする前に、髭と髪を整えると、

「変じゃなーい?」と尋ねられました。お顔が白くてきれいだったので、「先生、とてもきれいですよ」と答えました。

その後も「Sは何時?」と尋ね、「あと一時間です」という時には、待ちくたびれてほとんどお話ができなくなりました。

 

お見えになった時には、食い入るようにS氏を見つめ、話しかけられると二度ほど深く頷かれるだけで、お話は出来ませんでした。

 

そしてその日の夕方から急に血圧が下がり、点滴で上げるようになりました。ほとんどお話はできなくなりましたが、話しかけると眼を開けてうなずかれ、精一杯の表現をされていました。

 

十四日、酸素吸入は最大になりました。声を掛けると薄く眼を開けて頷く程度です。お食事は全く摂れなくなりました。

夜、X線を撮ると、片方の肺がつぶれてしまっているので、今晩か明日がヤマでしょうとの事でした。私たちはそれでも先生が良くなることを信じました。

夜中、急に血圧が下がったとの連絡があり、駆けつけようとしましたら、持ち直されたから大丈夫との電話がありました。

 

翌十五日、スタッフ二名は、病院に出勤。十時頃までは、前日と変わらない数値で安定していましたが、一人を残して奥様と二人が帰ろうとした途端、急激に血圧が下がり危篤の状態になりました。皆で大きな声をかけては、家族や事務所にいたメンバーが駆け付けるまで待っていました。

 

代わる代わる皆で先生に声をかけ、最後にご子息さんが、「おやじ…」と話かけ、「頑張って生きていく」と誓うと、その途端に心拍・呼吸が停止しました。

 

医師と看護師があわてて病室にかけつけて来られました。

医師は瞳孔を確認され、「脳死です。ただ今十二時六分です」。

 

そして、ご家族のたっての希望により、通夜と密葬がささやかに行われましたことを謹んでご報告申し上げます。

 

棺の中の塾長は、贅肉がすっかり取れてスッキリされ、少し淋しそうではありましたが、お化粧をしたように色が白く、シワが一本もなく、頬と唇はほんのりとピンク色でした。目は少し開いていて、微笑んでいらっしゃるようで、何か突き抜けられたようなお姿でした。額には金粉が出ていました。

 

葬儀社の方が、「お化粧も何もしていないのですよ。」と強調して言われ、ドライアイスをたくさん入れてあるのに、荼毘の直前まで体も手も柔らかく、ヒゲまで伸びていました。「死後硬直がなく、こんな方は、初めてです。皆様に見て頂きたいようですね」と涙ぐんでいらしたのが印象的でした。

 

本当に名残惜しく、まるで菩薩像を観ているような、いつまでも見ていたい、飽きることのない位美しくも、優しい、崇高な、何とも表現し難いお姿でした。

塾生及び懇意にして頂いた皆様に対面していただけなかったのが、本当に申し訳なく残念でなりません。どうか、お許し下さい。

 

『塾長は、辛い修業が全部終わって神様になられる道に入られ、現世でされることはし尽くされて旅立ち、これからは、天からインスピレーションを送ってこられる』とのお言葉を皆様から頂いています。

本当に、塾長は、肉体という束縛から解放されて、「千の風」のように、自由に忙しく飛びまわっていらっしゃることと思います。その方がむしろ本来の塾長らしいのかもしれません。

 

塾生からは、それぞれにしっかりと塾長の意志は伝わっていると、はっきりと宣言されている方々が多いのに驚いています。接した時間や回数の多少ではなく、それぞれの人生の根幹のところに、塾長の思いがずっしりと根を下ろしていると言ったらいいのでしょうか。

『人々に多くの教えを残されて、偉大な人生だったと思います』とお寄せ頂いたメッセージを思い出します。塾長の感化力と情熱。改めて塾長の大きさに気付かされているこの頃です。

 

塾長のいらっしゃらない塾なんて考えたこともありません。事務所のテーブルも椅子もそのままにして、常に塾長の存在を感じながら、塾長の遺志を継いで参りたいと肝に銘じております。

 

                   合掌

  平成二十一年六月 

濤川平成塾事務局 

 

 

 

 濤川栄太塾長を送る会(塾葬)     

(平成二十一年五月三十一日)

 

 式次第

 

 一 参加者入場(BGM「ラフマニノフ交響曲第二番」)

 

 一 思い出のスクリーン(写真・講演・刈干切り唄)

 一 開会の辞(司会)

 

 一 お別れの言葉 御来賓  産経新聞社 様 

         実行委員 早稲田大学名誉教授 様

               日本サッカー協会 様

              首都大学東京 様

               PHP総合研究所 様

 

          ご友人代表 

          長野県事務局長 中村八恵子様

 

 一 お別れの曲 「千の風になって」 

             ソプラノ歌手 植村まさ美様

             ピアノ伴奏  西村陽子様

 一 弔電奉読

 一 お礼の言葉 実行委員長 医学博士

 

 一 参加者献花 ヴァイオリン演奏 栗山ひろみ様

 

  (別室オリオンにてお清め)

一 菊地康生&HIROMI様による演奏

 

              (如水会館・スターホール)


濤川栄太塾長への追悼文(塾ニュース一四九号掲載分より)

 

 この度は濤川先生の突然の訃報に接し俄かには信じられず、大変驚いております。

 濤川先生と出会い、教えを受けた豊田小学校での日々は、今在る私の基となっています。

 多方面でご活躍の報に接する度に、遠い存在となる様な感を抱いておりましたが、かって私達小学生が組み付いて遊ぶその相手をして下さった恩師を、大の大人が慕って集う様を知るのは喜びでもありました。

 長年闘病生活を送っていらしたとの由、おそらく志半ばでいらしたでしょうが、太く短く大活躍なさった足跡に接すると、濤川先生らしいご生涯だったと感ずるところであります。

 濤川先生と出会えて本当に良かったと思っております。

 謹んでご冥福をお祈りいたします。        

             ☆

人々に多くの教えを残されて、偉大な人生だったと思います。

             ☆

 八〇才台の男の生き方を教えて頂き、今も心の幸せを満喫して居ます。このご恩は生涯忘れません。

             ☆

 とても深いご関心と、少年のように純粋で卒直な好奇心と、共に未来を語る夢を頂きました。

 これからは、再びお目にかかってお話できることを、ひとつでも多く残せるよう、微力ながらがんばって生きていきたいと思います。

            ☆

 私のような若輩に対しても心からの言葉を送って頂きました。

 死は悲しいですが、死に方もセンスです。先生もう少し聞きたい、もう少し飲みたい、もう少し食べたい、もう少しが大切。

先生淋しいけど格好いいです。

            ☆

 

 誠に残念でなりません。

 種々の治療に積極的に取り組んだ濤川さんの姿には感銘を受けました。安らかにお眠り下さい。

            ☆

人は生涯の中で、逢うべき人には必ず会う。

しかも一瞬も早かりもせず、遅かりもせず!!

永遠のロマンと夢と希望と、万能性を語りつづけた先生!!

死線を彷徨いながらも、

 強い意志と、信念と努力で蘇って活動された 先生!! 

キング牧師の言葉を常に繰りかえした 先生!!

 ”I have a dream !!  私には夢がある.

胸にしみいるような声でよく歌われた”民謡 刈干切り歌”

どうかいつまでも大勢の人々に、夢を与え続けて下さい。祈冥福!!

            ☆

 先生は、現世ではもう充分な奇跡を起こされたのでしょう。

 今度は天空でもっと慈愛に充ちた大きな奇跡を起こされることでしょう。合掌

            ☆

 濤川先生に小生の女性の応援団の会にお出でいただきご講演を賜りました。八〇〇名の会員をとりこにしてしまったことに驚きとともに、大いに学ばせていただきました。あらためてありし日を偲びご冥福をお祈りいたします。

             ☆

あの情熱のこもった弁舌 論証を求めてやまない心 濤川先生の生きる姿でした。六十五歳早い旅立 残念なことです。ご冥福を念じます。

             ☆

初めて濤川先生をお見受けしたのは、二〇数年前、ある方の出版記念パーティの場でした。ゲストとしてスピーチなされたその迫力に圧倒され、日本人にこれほど印象的なスピーチをする人が存在したのだ、とその音声の深みとボリウム・聴く者のすべてを引き込まずには置かないお話の内容に感嘆したものでした。

 その後、縁があり、大切な著書として幾点ものご著作を刊行させていただきましたが、各ご著作の企画から刊行に至る間の交流は楽しく、また充実した時間を編集者として味わうことができました。

 逗子のオフィスで、時にはお菓子を、時にはお酒を共に戴きながらの語らいは、これからも忘れないでしょう。

              ☆

 思い出は数多くあります。私の心にしっかり残しておきます。

 千の風になって私達を見守って下さい。

             ☆

先生の志 一挙手 一投足 そしてあの笑顔 決して忘れません。

             ☆

最後まで日本の明日、人類の明日を考え、行動をされたことは、私に「人間としてのあるべき生き方」を教えて頂きました。

             ☆

 塾長の訃報に接して、ヨハネの福音書の一節”I chbin  gekommen,

damit sie Leben haben und es in Fulle haben”

 (私が来たのは、人々がいのちを得て、生き生きと生きることができる)という言葉を思いました。

先生はそのような人だったと思います。ご冥福をお祈りします。

             ☆

 幼い頃の栄太君を抱っこしたことが忘れられません。先立たれて残念!努力と熱意の生涯を送られたこと、ほめてあげたいと思います。

             ☆

 志を持ちながら無名で恵まれない人間にいつも温かい目を向けておられた先生がこの世を去られたことは本当に淋しい限りです。

 夢だ!知恵だ!勇気だ!と、とかく立ち竦みがちな我々に言葉をかけておられた先生を失ったことの痛手を今さらながら痛感する毎日です。

             ☆

 あのダイナミックでエネルギーの塊だった濤川先生がこんなに早くお亡くなりになるなんて今だに信じられません。

 山陰放送を通じ多くの皆様に人としてのあり様を力強く呼びかけて下さったこと、昨日の様に思い出されます。

 世の中をより良くするために 人と人の関係をどう紡いで行くのか どれ丈学ばせていただいたことでしょう。大切な濤川先生の代わりは出来ませんが影響を受けた多くの皆様の力を合わせることで先生の目指された世の中づくりに努力できると信じています。どうぞ安らかにお眠り下さい。ありがとうございました。

            ☆ 

 散る桜 残る桜も 散る桜

 多くのご活躍に対し敬意を表します。

 私達もそう遠くないうちに参上します。

 又天国で親しくお会いしましょう。まずは一まず、さようなら

            ☆

 安易に「巨星墜つ」などと言う言葉を、使うべきではないのかもしれない。しかし、濤川先生はまさに「昭和の巨星」のお一人ではないかと思う。私が初めて先生にお会いしたのは「みうら保健福祉まつり」で講演会の講師をお願いした時だった。

 「21世紀を前に、今、日本人は自然体で虚心坦懐に現実を見つめ、この国の方向を考えねばならない。」と、秋だと言うのに当日は大変に暑い日で、先生はワイシャツの袖をまくしたてての熱弁だった。多くの市民が熱心に耳を傾けた。平成七年一〇月一四日のことだった。今、その日の写真を見ているが、若い一青年濤川がそこにいる。私はそれが縁で、何度か塾にお邪魔したが…。

 もう会いたくても会えない。もう先生の声を聞くことさえも出来ない。先生さようなら、そして、先生、本当にありがとう。

            ☆

 独特の風貌に 日本の未来に熱く憂いを語るそのお姿が瞼に焼き付いて離れません。

その志は後進の方々が引きつがれるでしょう。お疲れ様でした。

            ☆

 太く 短く 精いっぱい 生ききったのですね。

 あまりにも はやい 旅立ちを思うと 残念でなりません

 何度も 何度も 危機をのりこえ その度に 私たちに 勇気を与えてくれました                                                                       

 いつも あたたかい 励ましを どの人にも 満面の笑顔で 与えてくださったお姿が 目に 浮かびます ふり返ると 次から次へと いいことばかり 思い出されます いつでも どこでも きっと これからは あの世で 私たちの 生きざまを 見守ってくれると思います

            ☆

 ニッポン放送の人生相談担当の頃、先生には大変お世話になりました。いつもにこやかでやさしいお顔が今でも思い出されます。          

            ☆

 先生と最初にお会いしたのが「濤川先生を囲んで語る女神の会」でした。会は音楽に始まり、私はそこで「千の風になって」を歌いました。会の最後は先生がすばらしいお声で歌ってくださいました。

 先生の人を引きつける歌声は今でも心に残って居ります。

 お別れの会に、お会いした時に歌った「千の風になって」を歌うことになりまして、感無量でございます。

 先生 宇宙から又生まれ変わって地球の人々をお救い下さい。

            ☆

 愛情いっぱいに「○ちゃん」と声をかけて下さる、先生、その笑顔を拝見できないことが残念でなりません。いつまでも、私の心に生きて下さると信じ、支えにして参ります。

 ☆

 区長選挙に出馬した折、ご挨拶に伺った所、初対面にもかかわらず、沢山の教訓をたまわり、又、激励の言葉も頂き、大変に感激いたしました。その後も、折りに触れては可愛がって頂き、感謝の言葉もありません。今はただ、先生の御霊が永遠に安らかなることを切に祈るばかりです。

            ☆

 濤川さんは、教育荒廃と家庭の教育力の低下のなかで、人間としての生き方を見失い、苦しんでいる若者達を体を張って救ってこられました。

 さらに近年には夢を失っている若者達が未来に希望をもてる日本にしたいと全力を投じて努力されてこられました。

 しかし制度疲労している政治は機能し難く、志半ばにして病に倒れられましたことは痛恨の極みと存じます。

 濤川さんの志が世に広まることを念じつつ、心よりご冥福をお祈り申し上げます。

            ☆

 平素、柔和な笑顔で接していただけたことは、心から有難く、又、力づけとなりました。心から感謝しております。

 しかし、一方、本気の度合いを感じられない言動に対しては、近い人へも厳しく叱咤されたことも忘れられません。

 御冥福を心より祈念申し上げます。

            ☆

 もう、思い出いっぱいです…。

            ☆

 濤川さんが小学校の先生をされていたとき、終業式で、子ども一人ひとりにチャンピオン賞を授与していたことに感動し、取材させていただきました。それ以来の長いおつき合いでした。ありがとうございました。

            ☆

 塾長には、死生観を教えてもらいました。

            ☆

 私は先生がお元気な時に東京で熱のこもった名講座を何回も何回もお聴きする栄に浴した者でございます。回を重ねてお話をお聴きする度に先生の心の広さに大いに感動させられました。

 又先生は、豪放磊落で血も涙もあり、それでいて眼光紙背に徹するところがある素晴らしい方でもありました。これからの日本のためになくてはならない人材であり、御活躍が期待できるものと心底思っておりましたのに、本当に残念でなりません。

 心よりご冥福をお祈り申しあげます。

            ☆

 先生は心の父です。

            ☆

 忘れもしない20年12月15日、私が初めて塾に参加し、先生から大きな衝撃を受けた日です。

 女性の多い華やかな美容業界に身を置く私にとって紳士の多い塾の光景はまるで場違いな場所に来たような違和感を覚えていました。でも講演を聞き、日本再生、教育再生、地球環境etc…。大きく、厳しく、たくましく、力強い迫力のある先生の声にただただ圧倒され、深い安堵感を覚えたことが今鮮やかに蘇ってきました。

「日本には、こんな方がまだ居らした…!!これで日本は、世界は救われる。きっと大丈夫、出来る!!」

 魂の奥深くまで先生の声は響いてきました。

 涙がとまりませんでした。

 先生は常に

「共に200歳まで生きて社会に尽くそう」とおっしゃっていました。

65歳の短いご生涯ではありましたが、先生のその強い思いは、日本を、世界を守り、導いて下さる事を宣言なさった言葉だったんだと今は確信しております。

            ☆

いつも本当に楽しくお話しさせて頂き、ありがとうございました。

先生がカラオケを歌っていらっしゃった時の、少年のような瞳が忘れられません。心よりご冥福をお祈り申し上げます。

            ☆

 濤川先生には、産経新聞神奈川県版の「教育相談」で大変お世話になりました。週一回、読者からの質問に、先生が答えて下さる欄でしたが、慈愛に満ちた親身のお言葉で励まされる読者の方は多く、担当しておりました私のもとには、いつもたくさんの質問とお礼の手紙が寄せられていました。心にとどくアドヴァイスや悩みをかかえた人に、頑張る勇気を与えて下さる「教育相談」。

 読者からの反響がとても大きかった為、神奈川県版ではなく全国版でということになりました。あれから十五年余の歳月が流れたことが、信じられない思いです。

 濤川先生が、度重なる闘病生活から奇跡的と言われるほど幾度か生還を果たされたとは伺っており、先生はどんな大病からも必ず生還されるように思っておりました。

 私の脳裏には今も、何ものをも包み込むようなぬくもりのある笑顔が焼き付いております。

            ☆

 半眼半口、ほんのりピンク色のほほに微笑を浮かべ、まるで生きているかのように温かく、美しいお顔。お骨は雪のように真っ白。

「何で…?こんなにきれいなんだ…!」と息をのむ声。

「成仏のお姿です。これほどきれいなお顔はみたことがありません。お身体が柔らかく温かいのでおひげも伸びてます。」葬儀社の方。

常々「生き様が死に様に出るよ」とおっしゃっていた先生。

 完全燃焼のお姿は、死してなお感動、安心感、安らぎ、生きる力を与え続けて下さっている。感謝。合掌。

            ☆

濤川さんは、首都東京に相応しい本格的な国際空港を創るべしと結集した「湾奧スーパー新空港実現を考える会」の同志であった。

 この計画は依然として生きて居り、その意義と重要性は不変である。

 これからも、天国から、我々の運動を見守り、支援して頂きたい。安らかにお眠り下さい。

            ☆

 取材でお世話になりました。教養は言うまでもありませんが、懐の深い方だと感じました。ご自身の利益ではなく、全体の利益に常に着目している点に頭が下がる思いでした。

 勉強会のときは、「起立、礼」で始まりますが、最初は違和感を覚えましたが、続けてみると、(武士道ではありませんが)「礼」の効用というものがあるものだとも気づかされました。

            ☆

 産経新聞への出稿ありがとうございました。

 新聞を通じて、濤川塾長の考えが読者に伝わることを実感できました。

 勉強会に参加させていただき、多くの事学び、自分の知識を高め理ことが出来、本当に感謝しています。

            ☆

 あれだけのご病気にかかわらず、泣きごとも言わず、最期までほほ笑んで…実にみごとな生きざまを私たちに残して下さいました。

いつか塾で「母親が大好きだから、その母親と会えると思うと死ぬのがこわくない」という話が出ました。

 私たちはいつか死に直面した時「塾長に合えると思うと死ぬのがこわくない」と思えるのだろうな…と、想像できることは幸せです。

            ☆

 今でも濤川先生の声がはっきりと聞こえてくるようです。

 私は濤川先生から物事を本質的に考える姿勢を学びました。

 塾生が学び方を学んだということは、塾生それぞれにその意志がしっかりと受け継がれているということだと感じ得ます。濤川先生は、強く生き抜き、暫しのお休みが与えられたのだと存じます。

 意志を貫くということは非常に厳しいことでしょうが、私自身の生き方をもって濤川先生の教えに報いてまいりたいとここに申し上げ、追悼の言葉に代えさせて頂きます。

            ☆

 愛されることよりも愛することを…。目をそむけない勇気、感動する魂…。忘れない!!濤川先生ありがとうございます。もう一度あいたい…。

            ☆

 夢を追いつつ亡くなることは 男としての 最高の生き方です。

先生はそういう人です。

            ☆

 塾長の熱気あふれる憂国の情が小生の脳裡に焼きついております。

心から冥福をお祈り申し上げます。

   ☆

 最後に先生にお会いしたのが、新宿紀伊国屋書店でのサイン会でした。病の回復期でしたが、顔色もすぐれずに一生懸命でした。

 情熱と信念のなせる技だと感じ、今の世に貴重な人を失ったと思っています。ご冥福お祈りします。

 濤川塾長ほど日本の事、世界の事を考えていた人はいなかったと思います。

 また、我々がすべき事、進むべき道を明確に示されたのも塾長だったと思います。

 昔、全経連のトップ・マネージメント・セミナー等の講師として、大変お世話になりました。濤川先生には、⑴日本人のすばらしさ⑵すばらしい日本人(吉田松陰・児玉源太郎・昭和天皇…)の存在を教えられ、亡国の危機迫る今日、本物の、新しい政治家の輩出をめざして自ら政界へ足を踏み入れて欲しかった。濤川先生の炎を吹くような激しい大音声が今も耳に残っています。残念。ありがとうございます。ご冥福をお祈りします。

 先生の“日本人よ目覚めなさい”の思い深き心に響くことばたち、力強い声、眼差しが心から離れません。二〇年前もそうでした。TVK収録後に煙草を燻らせながらスコッチを酌み交わし歌い合った先生の懐かしくて甘い歌声に惚れ惚れしたものです。その時も力強い、勇気溢れることばたちをたくさん頂きました。

 濤川先生、私のような未熟者にまで、御心掛け頂いた事に今一度心から感謝申し上げます。ありがとうございました。

 濤川先生に初めてお会いしたのは、10年ぐらい前のことです。『新しい歴史教科書をつくる会』のイベントで本にサインしていただき、握手していただいたことを今でもおぼえています。

 高校生の頃、家業の手伝いをしながら聞いていたラジオの人生相談番組のカウンセラーをしていた方と会うことができたのがとても嬉しかったです。どうもお世話になりました。

 先生の塾や書籍を通じて頂いた言葉に宿る気氣に、私なりに応えようといつも考えておりました。

 見えるものは、やがてそのすがたを変えていきますが、見えないものは、そのままのかたちで残っています。

 新松下村塾の神奈川県顧問として、濤川先生には大所高所からご指導いただきました。先生の優しい笑顔と親身な人柄が今でも忘れられません。

 これからも先生の精神を大切に守りながら国政に邁進することで、恩返しいたしたく存じます。

 濤川先生の存在を知ったのは、二年程前になりますが、直接お話を伺う機会がありませんでした。いただいた沢山の著書には大変感銘を受けました。あまりにも早いお別れは残念でなりません。心から御冥福をお祈りいたします。

 今年は吉田松陰没後150年と聞いております。塾長をお送りする年と重なるのは偶然でしょうか。

 私が濤川先生のお名前に最初に出会ったのは、書店で一冊の書物「今、親は子に何を語るべきか」を手にした時だった。私は学習塾で長年子供たちと接してきているが、年々子供達が無気力になり、親の子に対する際限のない過干渉を痛感する中で、塾がこのままでいいのだろうかと考え悩んでいた時だっただけに、濤川先生のこの著書に出会えたことは、一教師として、一父親としてこの上ない喜びであった。

私はこれを、子供への接し方を導いてくれる書として、何度も何度も読み返した。その後続々と出される先生の教育書を読ませていただき、私の目指す方向は間違っていなかったと確信し、大変に勇気づけられたのである。偶然にも、私の所属していた塾全協の研修大会で、濤川先生のご講演を拝聴する機会があった。先生のソフトな語りにもかかわらず説得力のある深い内容のお話の中に、先生の量り知れない大きさを感じすっかり魅了させられてしまった。

 先生は、平成の吉田松陰たらんと「新・松下村塾」を主宰され、志をもって集った塾生たちに毎月講演され、夜は夜で読書と執筆作業に寝る間も惜しんで取り組まれていたという。毎年多くの啓蒙の書を世に出され、御講演で日本全国を回られていた。ご心労がたたったのか数年前に大病され大手術をされたのにも拘らず、気力で克服され以前にも増してのご活躍ぶりとお伺いしていた。近年出された七田眞先生との対談のCD「新しい日本の教育を考える」の中でも、混沌たる日本の現状に深い憂いを持たれ、地球規模の広い視野から日本を何とかしなければと元気なお声で熱く語られていた。私は、教育面でもっと頑張って頂きたいと、先生の今後ますますのご活躍を望んでいた矢先のあまりにも早すぎる御逝去に、ただただ驚き悲しみに暮れるのみである。まさに、巨星落つである。しかし先生が「新・松下村塾」でお育てになった塾生たちが必ず先生の志を受け継ぎ、確りと守り育てていかれるだろうことを確信して、私からのお別れの言葉とさせていただきます。

 濤川先生、どうか安らかにお休みください。

 

 地獄のような病床にありながら、常に涼やかなお顔をされ、後悔ばかりしている私に――後悔からは何も生まれない。反省すればいい。誠実に徹すれば何ものも怖くないと――叱咤激励して下さった先生。――何故それがなし得たのか。幼少の頃より勉学に励み、修得された底知れぬ深い学問の研鑽の集大成、すなわち英知をもって最大の難、病魔、死魔と立ち向かっておられたからだと思います。

 人類救済をかかげて40数年、ただただ人の苦しみを自分の苦として同苦し続けた先生のその大感情は永遠に、私達の心の中に生き続けていくと信じます。

 「俺は無冠の帝王だ」と、いたずらっぽい目で豪語していた先生。「一人の男が、どれだけのことができるか、やり抜くんだ」と、人の何倍もの密度の濃い人生を走り抜いた先生でした。

 いまから25年ぐらい前、小学校教師時代に、出会い、塾生としても、私の事を何かと引き立ててくださいました。先生から学んだことは、あまりに多く、感謝の気持ちで一杯です。根っからの明るい陽性の先生は、みんなが悲しむことは望んでいないでしょう。きっと天国でも、人々を集めて辻説法をしているのですよ。先生に会いたい時は、著書を読むことにしましょう。私達が岐路に立たされて困っている時でも「こうしたほうがいいよ」と声が聞こえてきますよ。天国で待っていてくださいね。私達より少しだけ先に逝かれただけなのですから。

 生きる事の意義を考えさせて頂き教えて頂きました。

 ヘアと笑顔(あいくるしい)が永遠に心の中で生き続いていくと思います。ありがとうございました。

 日本の教育の立派なオピニオンリーダーを失い本当に残念であります。先生の持論であります「国語の大切さ:発声して本を読め」の教育方針もやっと学校教育に取り入られ、さらには、平成21年には子供たちが、知性、感性、道徳心、と体力を育み、人間性豊かに成長することを願う方針が、東京都教育委員会からも通達された時期であります。

 先生が病床で語っていたごとく、「人間尊重および社会貢献の精神」、「豊かな個性と創造力」という未来を託する子どもたちへの東京都の教育指針が発表され、実現に向かうところであります。

 産経新聞社のOBです。塾長とは立教大学の同窓で私が少々先輩。その一点でいつも私を立ててくださる気配りの豊かな方でした。

 闘病中にお見舞いに行かなかったのが心残りです。

 先生の本に助けられました。”祈り”と”愛”が教育の原点であるということ。

 腎臓移植手術後の先生にお会いした時、奥様に「○○さんも腎臓一個で頑張っているんだよ。三人は腎臓一個の三人組だね。お互いに頑張って行きましょう」と笑いながらかわした温かく、力強い先生の握手。いつまでも忘れません。それにいつも変わらない明るい笑顔で、ご指導くださった濤川先生。本当にありがとうございました。

 塾長には僅か一年余の御厚誼ではありましたが、数多くの力作を世に送り出し、文字通り”格陽の紙価を高くした“御功績に末代までも高く評価すべきでありましょう。これからが愈々塾長の真骨頂を発揮すべき時と皆さんが期待申し上げている時の御不倒、天を恨みたくもなります。しかし先生の”数多くの力作”を繰り返し輪読することによって、その遺志を受け継ぐ様努めたいものです。中でも「日本の決意」は座右に置いて、日常の活動の糧とすべき御遺作と存じます。我国の危機に対し、私共は「日本の決意」を指導書として理解し、その理解を行動に移す様努力しなければなりません。年齢相応の作業しか出来ませんが、若い皆様方の先生の御遺作の研究とその成果を実行に移す行動を心から期待申し上げ、塾長の御冥福を御祈り申し上げます。

 心よりお悔やみ申し上げます。

 日が経つにつれ、悲しみが増し、いまだに塾長が居ない、現実を受け入れられない状況です。

 先生を失ったことの悲劇は到底言葉では表せません。この世界に先生ほどの素晴らしい人が、日本の政治家に数十人でもおれば、世界に誇れる日本になっているだろうにと思ってしまいます。亡くなられてしまった先生は、私の何倍も悔しい思いでいられるのではないかと胸が痛みます。

 先生の「心の幸福を求める人へ」の中にある

 

 人間を見ていて つくづく感じる事がある

 それは その人が欲するものを 

必ずしも天が与えていないということを

 

欲しなくとも 天が与えているものがある

よーくみつめていると わかってくる

 

それは その人間にとって

真っ向から格闘していかねばならぬ 課題なのだ

 

その格闘を避ける時 天はその人をまず身捨てている

 

をよみながら、先生はまさに壮絶で崇高な「人はなぜ生きるのか」の体現者であられたと、強烈な胸の熱さを覚えます。

 先生のご厚誼を一度も聴かせていただく事なくお別れする事になってしまいました。とても残念です。

 一冊の本との出逢いで大変短い時間でしたが、先生とのご縁もでき、お目にかかれた事は、私の宝となりました。そして「○○さんは正直なんだネ。すごいエネルギーを感じます。お顔を見ていると元気になれますョ!あなたは太陽のような人ですネ。」と微笑みをうかべながらお話して下さったのが、私にとって遺言となり、これからの人生において勇気を下さいました。「貴重な宝物です」本当にありがとうございました。この言葉に恥じないよう精進して参ります。どうぞ末長くお守り下さいませ。感謝。合掌。

 私が先生と初めてお会いしたのは、先生が44歳、私が33歳。 

 今から24年前、子育てが始ったばかり。新米ママの私にとって子育てや人生の羅針盤となった教育講演での衝撃的な出会いでした。

 身体もお顔も声も心も思想も、全てスケールが大きくて全身からあふれるオーラに誰もが一気にファンになりましたよね。それは父親である夫もそうでした。

 「○ちゃん、歯科医師も人間学だよね」とおっしゃり、父親は子どもに夢を語れとアドバイスしてくださったのです。

 

 先生は富士山が大好きでした。微動だにしない不動の富士の姿をよく話してくださいました。日本の象徴の山。濤川先生は日本一を意識することを教えてくださいました。私も日本一の母親になることを決意したこと、懐かしく思い出されます。なんでも一番になることは人様と競ったり、比較して奪い取るものではなく、自分の中でいつも日本一を意識すること。自分磨きの頂点でありました。そして一番乗りで長野県濤川栄太事務所を立ち上げました。

 生きて生きて生き抜け!と先生の声が聞こえてきます。天地いっぱいの花を咲かせて先生にお見せします。これからは皆が心の中で先生を独り占めして語り合うことができますね。

 いずれ再会いたします。もう一度お会いするまで…。濤川栄太先生、

ごきげんよう。

 いつもエネルギシュで、汗をびっちょりかきながら日本の将来や世界の平和、地球環境の今後を熱く語っていらっしゃった、元気な姿しか思い浮かべることしかできません。

    山裾の一樹の新緑から

 

標高六二九メートルの猿投山 

山裾から山頂へ 徐々に登っていく新緑

 

明日は濤川平成塾 心待ちにしていた矢先

濤川塾長永眠の報 寝耳に水であった

 

濤川先生は生前 よく宮澤賢治の言葉を使って

自分のために生きなければ生きられないが

人のために生きなければ幸せになれない

このように述べられていた

 

昨年末には病床より

一刻の猶予もできないほど 日本は行き詰まっている

皆で力を合わせて 日本と地球環境を救おう

 かすれ声でこのように述べられた

 

 幕末に生きた吉田松陰は さまざまな失敗の後に 

在野の有志が立ち上がらなければ 

日本の現状を救えないという 

草莽崛起論に至ったと聞く

 

 濤川先生のお仕事は まさに現代の吉田松陰

 今 引き継がれようとしている 濤川先生の志

 

ああ 全山新緑となるにも

 山際の一樹の新緑から

 

 思い返してみると先生にはたくさんの事を教えて頂きました。先生は夢や希望、目標を持たれ常にそれに向けて努力されて、「努力」とはどういうことか、目から鱗が落ちました。またある時「人に悲しい思いをさせて自分自身を保とうとする生き方はいけないよ!」と指摘されて屈折している感情に気づき、不安感をそのまま受け止め、原因を探り解決していく前向きの生き方をすること。それによって世界が輝いて見えるようになりました。20代初めに先生と出会えたことは自分づくりをする上でも幸運でした。

 「人間は安心感を食べながら生きている」「自分と接したすべての人の人生が開けていく、そういう人間になりたい」そう語っていらした先生。たくさんの安心感と喜びと感動を人に分け与えられた先生でした。合掌。

            ☆

 昭和五十七年に、東京・大手町の産経新聞社東京本社に突然お越し頂き、前年に著された「今、親は子になにをかたるべきか」について精魂こめて語られる姿が、四半世紀以上たった今でも昨日のように思い出されます。何とファイトにあふれた方だろうと思ったのを忘れられません。一緒に来られた皆様と今日まで運動をともにされ、多くのベストセラーを著し、多くの人たちを励まし続けられました。ワインを飲み、大声で笑い、歌われる方でしたが、ある日から、革靴が運動靴になり、ワインがウーロン茶になりました。もう一回大声で歌いたかったですね。最後に会った時に握った手の感触が私の手に残っています。

            ☆

 先生には小学校の時 いつも夏休みなどは家庭訪問と材木座海岸での海水浴などいつも子供達を励まして下さいました。ほんとうに ありがとうございました。

            ☆

 濤川先生、多くの魂の学び、喜び、そして感動を有難う御座居ました。どのような言葉でも感謝は言いあらわせません。

 先生がお亡くなりになって二週間ほどたってでしたが、すばらしい夢を見させていただきました。先生が長いローブを召され美しいホールでお歌を歌っているお姿でした。明け方四時半頃の夢でした。なんとすばらしいお声だろうと歌に感動し目覚めさせていただいたのは初めての経験でした。天界に行かれ見守ってくださっているのだと深く感じました。亡くなられても深い喜びを与えてくださった先生!!”Give and Give”を教えてくださった先生!!私はこの学びを継承してまいります!!

            ☆

一人一人を大切にし、最後まであきらめないで、頑張る姿はすばらしかったですね。

            ☆

 濤川先生は常に周りの人に明るさとパワーを与える方でした。また、寛大さと包容力を兼ね備えられ、誰もが引き付けられる魅力をお持ちでした。

 先生の日本に対する熱き思いを、私たちが継承していかねばならないと思います。

 先生、天国から見守っていてください。

            ☆

安らかにお眠りください

 

 今、世界は病んでいます。幸せの価値観を見間違えたようです。

 巨万の富への憧れ! 武力による支配!

自然摂理への挑戦!  隣人愛の崩壊!

兄様は私たちに知らしめました

濤川平成塾に宿題を残してくれました

きっと 兄様の預言者が現れます

 

だから 安らかに お眠りください

 

いつまでも私たちに 優しい眼差しで

厳しく 叱咤激励してください

愛と情熱を育ませて下さい

 

それが 濤川栄太兄様の生き様でした

            ☆

 とにかく、65歳ではあまりにも早すぎます。

 一昨年の一〇月、『病気は必ず治る!』で3年間の病との戦いを我々に語りかけられた時は、八〇歳、九〇歳どころか、一〇〇歳までも生きられるのではないかと思ったものです。エネルギッシュに活動を続けられる濤川先生のお姿を拝見するにつけ“私も頑張らなければ”と何回励まされたかわかりません。

 今日本は克服すべき多くの問題をかかえています。

まだ、まだ濤川先生には先頭に立って頑張ってほしかった…。

本当に早すぎました。

            ☆

 教えていただくことや、お世話になるばっかりで、何もお返しできず残念です。心よりご冥福をお祈り申し上げます。お疲れ様でした。

ありがとうございました。

            ☆

それにしても驚きです。こんなにはやく旅立たれてしまうとは。でも ご意志は残された我々に十分伝わっています。あとは我々各自がいかにそれを具現化していくかでしょう。有難うございました。

            ☆

  濤川栄太先生の御逝去を悼み、謹んでお悔やみ申し上げます。

 先生との出会いは、8年前、私が幼稚園のPTA会長をしていた時、先生の著書を読み、深く感動し、幼稚園の保護者勉強会での講演をお願いしたいと思い、手紙を書きました。まったく面識も紹介もない、一読者の突然の手紙にもかかわらず、すぐにお返事を頂き、講演をお引き受け頂きました時の感動は今でも忘れられません。

 先生から学んだことを忘れずに、また心の糧として日々努力していきたいと思います。

            ☆

 最初に出会った時、先生の「情熱」そして「愛情」というか、並々ならぬインパクトを感じました。時人生の全ては出会いという奇跡の集合体だと思いますが、その中でも印象的な素晴らしい出会いが出来たと感謝しています。当時、私が市のPTAと関わっていて、子どもの現状を改めて直視する機会を得、日本の未来に危機感を抱いていた頃でしたから。

 先生は幾度の病にも拘わらず、自信を失ったように見受けられるこの日本を明るい未来のある日本に再生しなければいけないという熱い使命感を最後の最後まで全うされました。

 明るい将来ある日本創りの為ならと自分の身をなげうち、危険にも立ち向かい、何事にもビクともせず邁進されました。特に歴史、道徳、社会、地域、家族そして子どもの環境に於ける諸問題をあぶり出し、

絆そして愛をもって文筆、啓蒙(講演)活動にとご尽力下さいました。その姿は、私にとって大きな勇気付けになり、平素の生活習慣の中でいきづくこととなったのです。改めて感謝申し上げると共に、深くご冥福をお祈りいたします。

            ☆

 濤川先生の大きな手、いつもお会いする時にぎゅっと握手をしていただき心の中で「こんな私に…」と思っていました。ありがとうございました。

 先生になかなかお会いできなかったこと後悔しております。先生の熱い熱い教育!きっと塾生が受け継いで下さると思います。私も頑張ります。先生ありがとうございました。天国で七田校長と教育論を語りあって下さいね。

            ☆

 ありし日のお姿をしのび、特に体長絶好調の時の迫力ある弁舌が心に残っております。先生の教育界に及ぼした力は はかりしれません。心からご冥福をお祈り申し上げます。

            ☆

 “同志”と思っておりましただけに、大変残念でなりません。ご冥福を心よりお祈り申し上げます。

            ☆

 生前、濤川先生は当店東京芝とうふ屋うかいオープン当初より、何度も御来店頂き、沢山の素晴らしいお客様もご紹介頂きました。

先生のご厚情を本当に感謝いたして居ります。ご冥福を心からお祈り申し上げます。

            ☆

 “湘南望偉”という名前を頂いて、挿絵を描かせていただきましたこと感謝しています。先生の子どもみたいに思っています。先生の頑張っている姿に感銘していました。

            ☆

 あまりに突然の訃報に唯々驚いております。まだ昨年にご講演を頂戴し聴講者一同深い感銘の今後の日本の進む道を熱意と創造性溢れるご講話でご提言いただいたばかりですのに そして その折 親しくお食事を共にさせていただき 8つの大病を奇跡的に克服され不死鳥の如く社会復帰を果たされたご体験に 先生の生命力に驚嘆したばかりです。ご生前の先生の体当たりのご尽力に勇気を頂き使命を感じて今日まで頑張ってくることができました。未曾有の日本国家にとりまして先生を今失うことは甚だ残念ですが 神の定めた寿命であれば致し方ありません。

 先生の生前のご遺徳に感謝申し上げ心からご冥福をお祈りいたします。

            ☆

 

(個人情報を鑑みてお名前は伏せさせて頂きました。)

 

 ※全文を掲載できず、申し訳ございません。また、不鮮明な部分も


あり、誤字・脱字が懸念されますが、ご了承頂きますようお願い申し上げます。

 

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