前:その他 教育概念など次:濤川栄太の言葉

教師という仕事
 教師志願の子に対するアドバイス(親からの質問に答えて)

 

今、日本社会では、教育論議はまことにかまびすしいくらいです。騒然としています。そして、その時、必ず語られる言葉は、教育は崩壊しているというものです。

 たしかに、そういう要素はたくさんあります。多くの子どもが自殺したり、登校拒否したり、シンナーや覚せい剤をすったり、いじめが横行したり…。危機的状況という表現にすら、なれ過ぎてしまっている感さえします。

 なんとか改善を重ねつづけて、より良い教育を志向しつづけていかなければなりません。ただ、教育というものを考えていく時に、気をつけていかなければならないことがあります。

 それは、急いてはいけないということでしょう。

 教育の対象は、あくまで“人間”であり、学校教育においては、子どもです。この人間というものについて、こういうものだとか、〜だという、把握についての過信を持つことは、きわめて非教育的であるという認識に立つべきであると、私は考えています。

 フランスの教育者ジャン・ギットンはこういいます。

 「学校教育というものは、一点から一点への最長距離を教えるものです」

 ここにある最長距離という意味を考える必要はあるように思えるのです。

 教育というのは、今日の結果が明日にという性格のものではありません。見方によれば、教師の仕事について、甘いと指摘されることもある訳です。ですから、手を抜こうと思えば抜けると外部から見る人もいるようです。ここの一点だと思うのです。だからこそ絶対手は抜けないと発想する人こそ、教師の適性のある人間なのでは、と考えてしまうのです。

 「陰徳あれば陽報」という言葉がありますが、誰も知らない、誰も見ていない所で、ただ、ひそかに、こどもの幸福と人間的発展のみを喜べる心情の持主こそ、教師らしさなのではないでしょうか。(略)

今の日本の社会様相は、あまりにこの発想とは対極的なところにあるといわねばならないでしょう。

 目立ちたがりもあるでしょう。“ひっそりと”を否定するものも多いでしょう。何でもスピードアップはないでしょうか。形のないものを信じる気風はあるでしょうか。損得抜きでもの思いは強いでしょうか。いや、それよりも、他人の幸福を心から祈れる心はあふれかえっているでしょうか。

 吉川英治ではありませんが、やっぱり、花見る時は蔭の人の心的傾向性がなければ、教師をつづけていくことは辛くなるはずです。

 子どもに人気のある先生がいます。それは、その要因として考えられる多くの理由はあるのでしょう。しかし、ただ一点、共通点があるのです。それは、子どもの存在自体が目的と思えるところがあるのです。子どもがそこにいてくれるだけで「嬉しい」「ありがたい」という思いがあるのです。それが、子どもに通じていっているのです。

 子どもは、「僕を受けいれてくれている」と思い、「私を前提として認めてくれている」「許してくれている」と感じられるのです。

 この共感関係が本物だと、子どもは、「この先生の『許せないもの』は一体何だろう」と考え始めます。

「この先生の『喜ぶもの』は何だろう」と思いめぐらせ始めます。そうなれば、しめたものなのです。

 やはり、好かれることは、いいことなのです。そして、そこに、いたずらな迎合や、いたずらなへつらいがなければ、かなり質の良い教育性が成立していくのです。

 ですから、教師という仕事は、それほど孤独であっては成り立たない仕事であり、それほど”孤独に耐えられること”を求められる仕事でもある訳です。

 否、孤独でないことも、孤独であることも、喜べる心が要求される仕事であると、私は思っています。

 ですから、最長距離という言葉には、多くの、数限りない要素があるのだと思います。

 一点から一点の間に、プロセスに(あた)うるかぎりの”想像性”を、子どもに抱かせることが大事なのでしょう

能うるかぎりの”夢”を、子どもに見させることが良いのでしょう。

能うるかぎりの”事実”を、子どもに見つめさせるべきなのでしょう。

能うるかぎりの”変化の可能性”を、子どもに探させることが好ましいのでしょう。

能うるかぎりの”主体的な認識と判断”を、子どもに敢行させるのが必要なのでしょう。

能うるかぎりの”思考”を、子どもの頭の中にはちきれさせ、駆けめぐることが求められるのでしょう。

能うるかぎりの”やさしい『愛』”を、子どもの心に湧き立たせることが子どものためになるのでしょう。

能うるかぎりの”汗を流そうとする意志”を、子どもの精神の中につくりあげることに心を砕くべきなのでしょう。

能うるかぎりの”いい汗かどうか自問自答する謙虚さと挑戦意欲”を、子どもの生命の中に培ってあげるべきなのでしょう。

能うるかぎりの”生きることに燃える炎”を、子どもに点火してあげることでしょう。

能うるかぎりの”美”と”善”と”真理”の光彩を、自らの信ずる思いと、流す汗と、誰人もとめることのできない”どうしようもない”事実と真実とで、子どもに注ぎつづけることでしょう。

 『教師』とは、そんなものだと、私は思っています。

                                  

      (『子育ての難問26』日本経済通信社刊より抜粋引用)

 

◇「教師という職業は、印象にすぎない。」

すべてのものを忘れ去ったあとに残るもの、それが教師の仕事でしょう。

しかし、それを甘んじて「印象でいいのだ」と受けいれる心を持てるかどうか…。

 

◇教師は、教室にあっては、一国一城の主。

そして、聖職者であり、裁判官(正義価値の追求者)であり、哲学者であり、詩人であり、演出家であり、役者であり、父親であり、母親であり、保護者であり、看護師であり、労働者でもある。

 

 

 

前:その他 教育概念など次:濤川栄太の言葉

〜HOMEへ戻る〜

inserted by FC2 system